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エッセイ

グロ―バリズムよりもボーダレス

グローバリズムが、マスコミ、経済界を侵食している。うんざりする。アホらしくて諦め、無関心の気になってしまう。

だが戦うこと。

それは、50年前も、今も変らない。

境界を踏み越えること。境界を、平気で無視すること。あらゆる境界を無邪気に出入りすること。

グローバリズムという新手の集権に抗して、個々のアナーキーな戦いを持続すること。

あらゆる囲い込みを拒み、個であること。

無名の個が、浮遊し、ぶつかり、はじけ、創造する。世界が、更新される。

無名の個の跳躍。世界の意味が変わる。

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エッセイ

地方が中央を包囲する

昨日、高島市市長選挙の開票結果、新人の福井正明さんに決まった。福井さんは、サッカー場建設計画と、新市庁舎建設移転の「凍結」を打ち出し、医療や福祉の充実を訴え、原発に対しては腰を据えた、脱原発を主張している。
接戦が予想され、降雪による投票率低下の不利があったにも拘らず、3000票差と思った以上に票が開いた。福井さんの訴えに共感する住民の積極的な動きがあったからだろう。

人々は、国が、国をと大声を上げる政治家や、投機的な金の動きを頼みにする中央の政治に期待することなく、今、足元の地方政治に、より真剣に向き合おうとしているように見える。

地方の新たなうねりが、中央を包囲する。

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大多数からもこぼれる人たち。

最近、二ヶ月とか、三ヶ月に一回の割合で世論調査の電話がかかってくる。私は即切ることにしている。面倒だからではない。乱暴なやり方に加担したくないからだ。100人いれば、100の違う答えがある。それを3つや、せいぜい5つほどの項目に分類する乱暴さはどうしても許せない。それらの項目からこぼれた、意見や思い、いかりや悲しみ、諦めなどはどこへゆくのだ。

このような調査に答えることは、なんら自分の意見を表出した事にはならず、こぼれるものを無視することに加担するにすぎない。

最近、その乱暴さが、安易な統計や分類、世論調査だけでなく、それにもたれるように、マスコミ、メディアや政治家にも見られる。

以前から、テレビを見ていてよく思うのだが、視聴者参加の討論会など、あるテーマを論じていかにも各層いろんな人の意見を反映しているかのごとくだが、そこでは、「テレビに出て人前で意見など言えない人」は、はじめから、排除され無視されている。

きっと、何時の世もそのようなこぼれる人が排除され無視されてきたのだろう。ただ、今の日本は、それがよりきつく当たり前に、「普通の人」によって、メディアの日常の中で、なされているのではないだろうか?

「枠付けられ、分類され、名付けられた何か」になれない人がいる。
市民社会の仕組みは、しかし、人に「何か」であることを無条件に要求する。政治も、制度も、行政もずっとそのように動いてきた。そこからこぼれる人は市民社会の中で生きることを許されない。死ねという。

名付けられた何者でもない人、何者にもなりたくない人。それらの人の言葉、沈黙がひとつの力になる蠢き。今はそれが必要なのだ。

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片桐夕子の記憶。

雪の箱館山

正月3日の夕方から、4日にかけて雪が降った。昨年の正月ほどの大雪にはならず、今は田んぼや道の脇、家の軒下に雪が残っている程度だ。
工房のある村の背後にある、この雪を被った山の景色が好きだ。二十代に見た神代辰巳の「濡れた欲情・特出し21人」のワンシーンの風景がずっと目にやきついている。少し感じが似ている。本当は、だいぶ違うのだけど、焼きついた記憶を蘇らせてくれる。
逞しいけどどこか切ない女の生き様を片桐夕子が演じていた、踊り子(ストリッパー)たちの一座が旅公演する、東北の屏風のような山のワンカット。

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霊性について

私は、つい最近まで、霊的なもの、精神というものを人間の中にあると確信していた。それは、私の中にもあると。

しかし、この「そわという名のいる」を書き始め、年が明け、より私のありようを見つめなおそうとしている今、霊的なもの、精神のようなものは、私の全き他者、いかなる重なりも接触も持たない外部なのだと思うようになった。
(界面の問題は、さらに考察を続けねばならない)

それは、創作ということを見つめなおす中で行き着いた仮の答えだ。
いかなる創作によっても、霊的なものを表現する事はできない。人間にできるのは、私という他者なる肉体の深みに跳躍すること。その深みから表現する事なのだと思う。

霊的なもの、全き他者は、人間によっては表現する事も、視ることも不可能なのだ。
(それは、神の ”過ぎ越し” ということへとつながるのではないか。これに関しては、また別からの重大な考察をしなければならない。)

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2013.01.02. 創作へ

私が創作を初めた二十歳代からずっと変わらず拠り所としている作家がいる。

「水の青が、岩場の多い山に植えられた木の暗い緑の中で、そこだけ生きて動いている証のように秋幸には思えた。明るく青い水が自分の開いた二つの目から血管に流れ込み、自分の体が明るく青く染まっていく気がした。そんな感じはよくあった。土方仕事をしている時はしょっちゅうだった。・・・・略・・・・秋幸はその現場に染まっている。時々、ふっとそんな自分が土を相手に自瀆をしていた気がした。いまもそうだった。」

「・・・・蝉の声が幾つにも重なり、それが耳の間から秋幸の体の中に入り込む。呼吸の音が蝉の波打つ声に重なる。・・・・略・・・・秋幸はいま一本の草となんら変らない。風景に染まり、蝉の声、草の葉ずれの音楽を、丁度なかが空洞になった草の茎のような体の中に入れた秋幸を秋幸自身が見れないだけだった。」

「海は、秋幸をつつんだ。秋幸は沖に向かった。波が来て、秋幸はその波を口をあけて飲んだ。海の塩が喉から胃の中に入り、自分が塩と跳ねる光の海そのものに溶ける気がした。空からおちてくる日は透明だった。浄めたかった。自分がすべての種子とは関係なく、また自分も種子をつくりたくない。なにもかもと切れて、いまここに海のように在りたい。透明な日のように在りたかった。それは土方をしている時と一緒だった。沖に向かいながら、泳ぐ自分の呼吸の音をきき、そのままそうやって泳ぎつづけていると、自分が呼吸にすぎなくなり、そのうち呼吸ですらも海に溶けるはずだった。」

引用が長くなったが、全て中上健次の「枯木灘」からのものだ。

「枯木灘」では、この描写が何箇所かで繰り返される。中上の諸著作に交錯する魅力の中で私はとりわけこの描写の持つ世界に惹かれ立ち帰ってくる。

私にとって自然とはここで描かれているようなもの、私の肉体とのみ関わるものの謂にすぎない。少なくとも、創作の場において主題になるのは私の肉体であり、自然はその延長の一部にしか過ぎない。
延長する外界には、アスファルトジャングルも、レールも、地下の雑踏も、アパートの錆びた階段も、疾駆する車もある。

私の作品の造形、色彩、アクセント、リズム、線描・・・・それらはここから生まれてくるのだと思っている。

私の創作の場において、いわゆる自然というものが特権的な位置を占めることはない。むしろ私の肉体というものが特異点となる。それは、人間という肉体でもある。というか、人間だけが自らの肉体をあぶり出す。自らの肉体を他者として捉え返すことができる。それは、悲惨なのか使命なのか、私は知らない。

ここで断っておけば、この私という肉体の他に、私の精神というようなものがあるという考えを私は持たない。私の肉体は、私という他者なのだ。

創作とは、この肉体という他者の深みへの跳躍なのだ。

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2013.01.01.

たどたどしく書くこと。

肉体の深みから。

未分化なまま。

2013年、書くことへの箇条。

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2013年、新たなステージが始まろうとしている。

デラシネ、スペイン内乱期へのロマンチックなあこがれを含んだこの言葉の響き、しかしいまそれは現実の重みを伴って響く。そして、アナキズム、これもかつて革命の血の騒ぎの中で胸を締め付けた言葉だが、それも今、日常の中に息吹いている。
何モノにも依ることなく、何をも代表せず、いかなる権力も求めず、一人の民以外の何モノにもならず、民の日々直接の行動が体制の施策への目に見える圧力となる。私たちは、そのような新たなステージに立っている。

2013年、それは民の力が試される年。ひとり、一人の民が、民のありようを問われ、答えてゆく形の始まりだ。

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それは決して悲観する状況ではない。

それは決して悲観する状況ではない。

小党分立と、低投票率の結果、自民党政権を復活させてしまったが、結果はともあれ、投票率の低さという事自体は決して悲観する現象ではないと私は思う。
関心が低かったわけではない。なのに投票しない人が多かったということは、安易な選択を保留したということだ。

多くの人が、将来の自分たちの有り様を特定の何者かに託すことをやめた。そんな選択の仕組みに疑問を感じ始めている。
民主主義とか政治への参加とか教科書には書かれているけれど、生活の場で何一つ実感できない。民意というものが常に裏切られる仕組み。メデイアはその仕組に加担する装置でしかない。
人は自分の感覚、今は何も選ぶべきものも託すものもない、その留保から彼の一歩を踏み出すしかない。そのひとつ、一つが力になってゆく別次元の仕組みを創りだすあちこちからの、あれやこれやの蠢きが始まろうとしているのか。

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松本竣介という画家

先日、NHKの日曜美術館で「松本竣介」をやっていた。これは今年の夏に一度かかっていて、非常に惹かれたやつだ。松本竣介という画家をその時まで全く知らなかったから、これはを見たときとても気持ちが高鳴ったのを覚えている。その再放送をたまたま目にして再びじっくり見た。

建築のフォルム、黒い窓の描写、その位置、黒い端的で力のある線。俊介をよく知る画家が、それらは彼の内面を表しているのだろうと言っていた。本当に内面なのだろうか?私はあえて鷲田清一が「最後のモード」でル・クレジオを引用していたように「内面などからではなく、肉体の深みから」と言いたい。
私が馴染んでいるのは内面なのだ。肉体こそ常に私の他者だ。ごく身近でいつでも捕まえることができそうで、逃げ去ってしまうもの。見ているようで、決して見えないもの。内面は、いつも把えることの出来る私だ。肉体は、私ではない。肉体は他者だ。その深みから表現も、創作もやってくる。

俊介の描くものは、説明のつく内面などではなく、俊介自身にもどうにもならない肉体の深みから生み出されたフォルムであり線なのだ。