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エッセイ

霊性について

私は、つい最近まで、霊的なもの、精神というものを人間の中にあると確信していた。それは、私の中にもあると。

しかし、この「そわという名のいる」を書き始め、年が明け、より私のありようを見つめなおそうとしている今、霊的なもの、精神のようなものは、私の全き他者、いかなる重なりも接触も持たない外部なのだと思うようになった。
(界面の問題は、さらに考察を続けねばならない)

それは、創作ということを見つめなおす中で行き着いた仮の答えだ。
いかなる創作によっても、霊的なものを表現する事はできない。人間にできるのは、私という他者なる肉体の深みに跳躍すること。その深みから表現する事なのだと思う。

霊的なもの、全き他者は、人間によっては表現する事も、視ることも不可能なのだ。
(それは、神の ”過ぎ越し” ということへとつながるのではないか。これに関しては、また別からの重大な考察をしなければならない。)

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