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エッセイ

大多数からもこぼれる人たち。

最近、二ヶ月とか、三ヶ月に一回の割合で世論調査の電話がかかってくる。私は即切ることにしている。面倒だからではない。乱暴なやり方に加担したくないからだ。100人いれば、100の違う答えがある。それを3つや、せいぜい5つほどの項目に分類する乱暴さはどうしても許せない。それらの項目からこぼれた、意見や思い、いかりや悲しみ、諦めなどはどこへゆくのだ。

このような調査に答えることは、なんら自分の意見を表出した事にはならず、こぼれるものを無視することに加担するにすぎない。

最近、その乱暴さが、安易な統計や分類、世論調査だけでなく、それにもたれるように、マスコミ、メディアや政治家にも見られる。

以前から、テレビを見ていてよく思うのだが、視聴者参加の討論会など、あるテーマを論じていかにも各層いろんな人の意見を反映しているかのごとくだが、そこでは、「テレビに出て人前で意見など言えない人」は、はじめから、排除され無視されている。

きっと、何時の世もそのようなこぼれる人が排除され無視されてきたのだろう。ただ、今の日本は、それがよりきつく当たり前に、「普通の人」によって、メディアの日常の中で、なされているのではないだろうか?

「枠付けられ、分類され、名付けられた何か」になれない人がいる。
市民社会の仕組みは、しかし、人に「何か」であることを無条件に要求する。政治も、制度も、行政もずっとそのように動いてきた。そこからこぼれる人は市民社会の中で生きることを許されない。死ねという。

名付けられた何者でもない人、何者にもなりたくない人。それらの人の言葉、沈黙がひとつの力になる蠢き。今はそれが必要なのだ。

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