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エッセイ 手作り市

本年最終の手作り市出店を終えて思うこと。

昨日、本年最終出店になる「上賀茂手づくり市」に行ってきた。今年の春から、毎月の定期的な手づくり市に出店するようになった。今までは、年2回の信楽の陶器市。それと地元の今津、マキノ、準地元の敦賀での手作り市には出してきたけど、毎月定期的に続けるのは初めてだ。今では、ほとんど毎週出店している。

こうして続けて出店していると、しんどい時や、厳しい時もあるけど、面白さ、興味、刺激が勝って楽しみになってくる。

陶器とは違う素材からの刺激が新鮮なこと、年代の違う出店者と接触できること、お客さんからの直の反応を感じること、生の意見が聞けること、今何が求められているかを肌で感じられる。人は、今、直接にということをあらゆる面に求めているのではないだろうか。ギャラリ-や陶器店の求めるものにではなく、求めにくるお客さんの求めに応じる、あるいは逆にお客さんを直接挑発する。そんな新たな関係だ。いや本来の関係かもしれない。はじめはそのように始まったはずだ。

そして出店してて思うこと。
出店者も、お客さんも女の人が元気いい事だ。

私は、ひとつの時代はもう終わりつつあるように感じている。
女性が男性社会に進出したり権利を主張したりする構図はもう終わっている。生活面での法や制度の整備はまだまだ必要だろうが、意識面では、これまで男性社会が築いてきたものはとうに崩れている。女性の感じ方、生き方が、古い意識に取って代わろうとしている。それは、主義主張や、原理、イデオロギーによって引っ張られるのではなく、ひとりひとり、直接の関わりの中から生み出されてくるものとして。
直に感じることを素直に生きる。そのために、人と人とどう関わり何をこさえてゆかねばならないか。
そんな小さな動きが、手作り市という出店者やお客さんの直な関わりの中からも生まれてくるように感じるのだけど。

来年も、手作り市出店を続ける中で、多くの新たな刺激を受け、挑発的なものを作ることで世を楽しくしてみたい。

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エッセイ 手作り市

「北山クラフトガーデン」

昨日、ブログ “そわという名のいる” を立ち上げた。この文章のあと、4年近く一行も書いていない。

今日、なぜか書いてみたいと思った。

少し、続けて書いてみようかなとも思う。

今、私は毎月四回、各週末、手作り市に出店している。

京都の、「北山クラフトガーデン」、「上賀茂手づくり市」、「平安楽市」、大津の「オーガニック&つながるマーケットin三井寺」。この4カ所だ。京都の3箇所は、同じ事務所が運営している。三井寺の手作り市は、2つのボランティアスタッフで運営している。

それぞれ特徴があり、違う雰囲気、空気、匂いというものを身体に、気持ちにたっぷり感じながら出店している。

最も小規模なのが、三井寺。「北山クラフトガーデン」もかなりこじんまりとしている。出店数も多く、賑やかなのが「上賀茂手づくり市」だ。「平安楽市」は規模は、「上賀茂手づくり市」に次ぐが、まだ始まって四回目なので、イメージも定まり兼ねているところがある。

「オーガニック&つながるマーケットin三井寺」は、ファミリーで、のんびりと、なんかホワっとしたところがある。

そんな中で、とりわけ私がこだわっているのは、「北山クラフトガーデン」だ。出店数は、多い時で60~70店。お客さんの数も、京都の他の手作り市に比べるとかなり少ない。けれど、この「北山クラフトガーデン」には不思議な魅力を感じる。

安藤忠雄の設計した、コンクリートと、陶板と、水によって構成された空間、「京都府立陶板名画の庭」。そこに手作り作家のブース、テントやパラソルが織り込まれる。小さなカーニバルのようでもあり。傍らで、街頭音楽が木の葉のように舞っている。

そう、多分そこには、いろんなジャンルの可能性が秘められているのだろう。

それぞれの手作り市で、お客さんや出店者との会話、関わりの中でいろんな創作への刺激が与えられるものだ。この「北山クラフトガーデン」はそれとは別に、それとは別様に空間そのものが創作への想いをかきたててくれる。そして、従来の手づくり市とは違った可能性への欲求を予感させてくれる。